バブの店さき 胡散無産 1998 vol.5
10年前、私は長い旅行をしていた。少し長く旅しすぎて、帰る機会を失いかけていた。そんな時にバブに出会って、私は日本に帰る決心をした。
タンザニアいちの大都市ダルエスサラームの北、ケニアとの国境の近くにタンガという古い港町がある。大きいわりに平凡な町で、観光客はほとんど訪れない。ケニアのナイロビで5ヶ月間スワヒリ語を習った私は、いくつかの町の後にタンガを訪れた。
そこは何だか、子供の頃私が暮らしていた町にタイムスリップしたような所だった。舗装していない砂ぼこりの道を自動車が行く。きちんとした構えの店もあるのだが、道端では足踏みミシンを踏んでいて、軒先に商品の服が下がっている。靴などの修理屋もたくさんあった。肌の色、イスラムの黒い衣装に身をつつんだ女の人、牛、たまに自転車でとおりすぎるマサイ族、正確には子供の頃住んでいた町と同じなのは舗装していない道路だけなのだが、町の何もかもが懐かしく感じられた。風にのって時々聞こえてくるコーランも、お寺の鐘のように聞こえなくもない。町の人も、なんだか日本人のように、どこか控えめでおとなしい感じがした。
その町、タンガは、よほど見るべきものがないのか旅行者には全く出会わない。実に何ごともない町だと私も思ったが、最初に受けた懐かしい感じが気になって少し長く滞在してみることにした。タンザニアは、国語としてのスワヒリ語教育に力を入れているからか、どの町でも教科書に近いスワヒリ語を聞くことができる。その代わり、同じく公用語である英語はケニアより苦手な人が多いらしく、外国人に英語で話かけられた時の反応は、日本人のそれととてもよく似ていた。私はカタコトのスワヒリ語を話したので、はじめは蜘蛛の子のように散らばっていった子供達や、井戸端会議をしながらひそひそと話をしていた女の人達も数日すると声をかけてくるようになり、やがていくつかの家でご飯をよばれたりするようになった。
私はその頃、音楽をやめ、仕事をやめ、もてあましたエネルギーのやり場に困ってアフリカに来ていた。とても意固地に「音楽以外のもの」でうちこめる何かを探そうとやっきになっていたので、やたら難しい本を読んだり、今まで知らなかったことを知ったり見たりすることに情熱を注いでいた。結果、大きなリュックサックにたくさんのアフリカの事などが書かれた本を詰め込んで歩き、それを旅先で読むという大変おかしな事になっていたのだった。都合のよい事に、タンガには港の見える大変景色のよい場所にきれいな図書館があり、私は朝から夕方までそこで本を読んで自分を納得させ、その後誰かの家で夕食をご馳走になったりする毎日を送っていた。
宿の辺りは、まさに下町といった感じの場所で、外国人の家はない。道は碁盤の目のようになっていて、一丁目、二丁目という具合に番号の名前がついていた。宿から図書館に向かう途中の目抜き通りには、ジュースの自動販売機のように、ある程度の間隔をおいてみかん売りがいた。宿から目抜き通りに出て、図書館に行く途中で最初にみかんを売っている人、それがバブだった。
バブはスワヒリ語でおじいさんという意味だ。見るからにおじいさんだったし、みんなバブと呼んでいたので、わたしもバブと呼ぶようになった。他のみかん売りの人たちは、夏みかんくらいの青いみかんを、大きな台に山盛りのせて売っているのだがバブの店では椅子ともテーブルともつかぬ小さな台の上に、ごろんといくつかみかんを並べているだけだった。品物は少なかったが、風のとおる軒下には板を渡しただけの長椅子があって、喫茶店のように色々な人が休みにやってきた。みかんの数だけ見ているとちゃんと商売をしていないようだが、注文すると全く切れそうもないアルミのおもちゃのような、でもとてもよく手入れされたナイフで、しゅるしゅると皮をむいて渡してくれるのだった。
顔は、私の祖父にとても似ていた。私の祖父は背が高く、痩せているけれど骨太で、大往生するまで少しも背中の曲がらなかった人だったが、バブはその祖父にイッセー尾形をまぜたような人で、とても愛嬌のある顔をしていた。何をするという訳でもないが、ただ座って、みかんや、時々仕入れられるジャックフルーツを食べたりしているうちに、私の図書館に居る時間とバブの所に居る時間は、いつの間にか逆転していた。
店にはたくさんの人が来たが、毎日来るのはバブの幼馴なじみのじいさん、向いでさとうきびジュースを売るアリという青年、一日一回必ずいじめられながらやってくる耳の聞こえない男の子、外国人の私などで、そこは吹き溜まりのような、学校のような、不思議な場所だった。
風もない昼下がり、みんなでぼうっとイスに座って通りを眺めていると、人の足音や轍の音に混じって色んな音が聞こえた。どういう瞬間か、バブは時々その静寂をやぶって、おぼつかない足取りで通りの真ん中までゆき、空に向かって両手を広げて「マンボー、シュワリー」と叫んではまた長椅子に戻ってくるのだ。みんなそれを聞くでもなく聞かぬでもなく、その後にはまた静かな時間が流れていった。日に二、三回は聞かれるその「マンボ:シュワリ」が私は大好きだったが、意味がわからないので尋ねてみる。するとバブはこんな風なことを言うのだった。
「ダダ(おねえさん)はジャパンから来て、毎日マクタバ(図書館)に通って勉強する。わしはここでみかんを売る。これ、マンボ・シュワリ。」「ダダはここにいて、わしはここにおる。これ、マンボ・シュワリ。」
そこは実に居心地のいい場所だった。でも、そんな毎日を続けているうち、自分だけが働いていないという事が胸にひっかかるようになった。仕事のない人もたくさんいたが、どの人もそこに暮らしがあった。私は遠い国からやってきてたくさんの本を読んでいたが、何にもわからなかった。バブはその町から出たことがなかったが、なんでもわかっていた。わたしはバブに「日本に帰る」と言った。日本に帰って暮らそう、と思った。
いろいろあって私は音楽をやめていたのだが、旅のあいだにどうしてもまた歌いたいと思うようになっていた。私は日本に帰って暮らしはじめたが、バンドをはじめたり、音楽をしていることを家族が喜んでくれるようになるまでにはかなり時間がかかった。その間の一番落ち込んでいる時に、バブの家族からバブが亡くなったという手紙をもらったのだが、返事を出すことができなかった。昨年の暮れに、バブのことを歌ったうたができ、それはこの九月にCDになった。私は今でも「マンボ・シュワリ」というバブの声をきくことがあるが、バブの家族にはその事をまだ伝えられずにいる。
写真:バブと同じ通りの、たくさん売ってるほうのみかん屋さんと